仏教に比べると儒教(儒学)というは何か面白くないのです。「論語」を読んでも、途中で眠くなり、最後まで辿り着かないのですが、儒学の進化形である朱子学には「性即理」という哲学のようなものがあるらしいので「
朱子学と陽明学」で勉強することにしました。
著者の小島毅先生には申し訳ないのですが、歴史的記述(第1~5章)は飛ばして「第6章 性即理と心即理」から読み始めました。
性即理・・・朱子学
心即理・・・陽明学
と説明されることが多いが、厳密には正しくない。
ここで、<理>は端的に言うと
「現象の奥にあるものを説明する文脈で使われる」
ということかと思う(実際は色々と説明があるが・・・)。
朱熹の時代には「〇〇は理だ」という述語の形で用いられる。
つまり日常用語としての<理>という語に世界の原理・真理の意味を担わせれることで、朱子学の哲学体系は構築された。
次に<性>について調べると、孟子が言う「性善説」すなわち「人はみな善なる性を持つ」における<性>、つまり「本性」だと考える。
ここで、さらに<天理>という語について引用する。
[引用]-----------------------------------
すべての人は天から<命>として<性>を賦与されている。天には<理>があって、これが世界全体を統一し秩序づけているのだから、したがって、これらの個々の<性>はすべて<天理>の一部として同質である。それが、孟子が言おうとしていた「人はみな善なる性を持つ」という意味である。
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さて、二程[兄:程顥(ていこう)、弟:程頤(ていい)]によって「性即理」説が定立された。
この二程をまとめて朱子学を起こした朱熹が「性即理」が並んだ<性>の説明に好んで引用したのは、張載の
「心とは性と情を統括するもの(心統括情)」
[引用]-----------------------------------
天の理だとされた性は人間の心の一部でしかない。他方に情というものが存在する。
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<情>とは「喜怒哀楽」+「愛悪
*欲」
*)<悪>(お)とは「悪いこと」ではなく「にくしみ」ということ
儒家思想において感情のむき出しな表出は控えるべきこと
これらの感情をどのように統御する、あるいは統御することが可能か → 修養論
[引用]-----------------------------------
たとえば<怒>の感情である。人にとって感情は不可欠であり、しかし人倫にもとる行為を知った場合には、むしろ怒らなければならない。ただし、その怒り方が問題なのである。表出の仕方が節度にかなっていること、すなわち、しかるべき手順をふまえて礼に適合した形で自分の感情表現をすると、それが人格者としての君子の振舞であろうとされる。すなわち、正しい怒り方や正しい悲しみ方があるわけである。
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<情>の表出が<理>であるところの<性>に即してなされることが望ましい。
[引用]-----------------------------------
喜怒哀楽は情である。それらの<未発>は性である。偏るところがないのを中という。表出してすべて節度にかなっているのは、情の正しい姿である。それに背く」ことがないのを和という。
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<未発> : 感情を引き起こす対象と、まだ接していないために、
当該の感情が生じていない段階。
対象に接すると感情が生じる。
[引用]-----------------------------------
人としての振舞は、その時点で理に適っているが問われているわけだが、そのためには常に心を 理=性 に純粋な状態に保ち、感情の表出が適切に行われた準備をしておかなければならない。
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→ こうした修養が決して外部的規範による強制ではなく、個々人の中に予め備わった天理としての性に従ってなされている。
臣下が君主に、 子が親に、 妻が夫に、
絶対服従するのは天の理 → 自然の理
この三種の人間関係を<三網>(さんこう)という。
その前提のうえに、予定調和的な人間関係を構築
→ 朱子学の社会論
今日はこの辺で。。
posted by T_NAKA at 01:00|
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